町田久成を知っていますか


博物館の誕生―町田久成と東京帝室博物館 (岩波新書)

博物館の誕生―町田久成と東京帝室博物館 (岩波新書)


 関秀夫「博物館の誕生−町田久成と東京帝室博物館−」岩波新書を読みました。東京国立博物館の成立史です。この博物館は、薩摩藩士の町田久成の情熱、粘り(押しの強さ)そして、薩摩人脈を利用してつくられました。


 大久保利通と懇意にしていた町田は、元々は外務官僚でした。しかし、英国第二王子の接待役をしたことから、親英派の大久保と反対派の外務卿沢の政争に巻き込まれ、文部官僚へ更迭されてしまいます。文部省へ移った町田は、欧米に負けない大博物館を建設しようと決意します。


 大きな仕事には、役所の縄張りや、それぞれの意見の食い違いがあるものです。明治維新ですからなおさらです。その食い違いによって、博物館を管轄する部署が、文部省(M2)であったり、内務省(M8)であったり、農商務省M14)であったり、宮内省(M19)であったりめまぐるしく変わります。


 また、博物館の名称がめまぐるしく変わったり、場所が変わったり、博物館の用地問題で他の施設との関係が書かれたり、さらに、多くの登場人物がおり、読んでいて混乱してしまいます。ということで、本には、博物館の歴史のフローチャート図、略年表が付いていました。


 明治14年、町田は大久保という後ろ盾を無くしながらも、上野の山に博物館を建設し、初段館長に就きました。しかし、建設に当たっての強引さがたたったのか、たった7か月で、農商務省少輔品川弥二郎に館長を解任されてしまいます。


 この本では、現在の東京国立博物館までの、一連の流れを押さえることはできます。ただ、サブタイトルを強調するのならば、町田が博物館をつくりたいと思った動機や館長を退いた後の、博物館との関係をもう少し詳細に語ってくれたらと思いました。


 でも、現在の東京国立博物館が大変苦労してつくられたことがよく分かる本でした。それと、主題とは関係がありませんが、国立科学博物館(前身は教育博物館)が国立博物館とまったく別の経緯でつくられたことが分かり、意外でした。


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