関ヶ原古戦場を巡る



 岐阜の帰りに、関ヶ原に寄ってきました。関ヶ原は子どもの頃からの憧れの地? 小学生の頃は「歴少年」で、小学生にありがちな戦国時代大好きの少年でした。今日は初めてJR関ヶ原駅に下りました。そして、レンタサイクルで古戦場巡りをしました (^0^) 。巡った順は、次の通り。


 井伊直政陣跡 → 徳川家康最終陣跡 → 黒田長政陣跡 → 石田三成陣跡 → 島津義弘陣跡 → 小西行長陣跡 → 宇喜多秀家陣跡 → 大谷吉継墓 → 大谷吉継陣跡 → 福島正則陣跡 → 藤堂高虎陣跡 → 本多忠勝陣跡


 関ヶ原は東西約4km、南北約2kmの盆地で、烽火(ほうか、のろし)場であった小高い所にある黒田長政陣跡から見ると、思ったよりも小さなエリアに見えました。このようなことは、実際に現地へ行ってみないと分かりませんよね。西軍は山のふもとに布陣していたので、巡るのも結構大変。特に、大谷吉継のお墓や陣跡は自転車で行けないので、山道を歩くことになりました (>_<) 。林の中は少し暗くて、古戦場だけにここで死闘が繰り広げられたと思うと少し心細く感じました。吉継の墓の隣には、側近の湯淺五助の墓があります。


  
  


 大谷吉継については、語るに及ばないと思いますが、秀吉をして「100万人の軍勢を指揮とらせてみたい男」といわしめた知勇兼備の名将です。親友であった三成への義理で西軍に参加。関ヶ原では、緒戦は藤堂隊と奮戦、その後寝返った小早川隊と衝突して3回にわたって撃退したものの、多勢に無勢で敗走に追い込まれてしまいました。吉継の墓は、何と敵方の藤堂家によって建立されました。それは次のような理由からでした。
 

 ハンセン病を煩っていた大谷吉継は、自害する前に側近の湯浅五助に「病み崩れた醜い顔を敵に晒すな」と申し伝えて果てた。五助は主君の命を守り、取った吉継の首を戦場から離れた場所に埋めた。埋め終わったときに、五助は藤堂高虎の甥の高刑(たかのり)に発見される。五助は、「私の首の代わりに、主君の首をここに埋めたことを秘して欲しい」と頼み、高刑はそれを受けて五助の首を取った。
 高虎と高刑が五助の首を持参すると、家康は手柄を褒めつつ、大谷吉継の側近中の側近である五助なら主君の居場所も知っているはずと、高刑を詰問した。「知らない事はないが、五助と他弁をしないと誓って首を取ったのでこのことはどなた様にも言えませぬ。どうぞ、私を御処分くだされ」と高刑は答えた。吉継の首のありかを言えば、更なる大手柄になるというのに頑としてありかを言わない姿勢に家康は感心し、自分の槍と刀を与えたという話が今日まで伝わっている。
 <Wikipedia 藤堂高刑より>


 吉継の墓の花立てには、枯れ果てた花がありました。あんまりなので、それを取ってきれいにしておきました。付近に花を探しましたが、何せ山の中なので何もありませんでした。残念。でも、これでわたしには、大谷吉継のご加護があるでしょう (^0^) 。


 


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