あの時


 乗客乗務員520人が命を落とした日航ジャンボ機123便墜落事故から、今日で丸20年が立ちました。この年わたしは就職1年目で、高校の定時制に勤め、軟式野球部の監督をしていました。
 

 そして、20年前の今日、全国高等学校定時制通信制軟式野球大会の2回戦を戦うために、東京の府中市民球場にいました。夕方、ダッグアウトから見た空は薄曇りでしたが、とても暑い日だったように思い出します。


 試合に負け、宿舎である日本青年館に戻ってテレビをつけ、事故のことを初めて知りました。しかし、その時には、航空機事故があったぐらいの認識でした。


 次の日の朝のテレビは、各局、乗客乗務員の名簿を流していました。大きな事故になったなと思ったときに、家から電話があり、高校時代の陸上競技部の2学年下の後輩が、この事故にあったことを知りました。


 自宅に戻り、数日後、その後輩の葬儀がありました。その後輩は、一卵性の双子で、同じ姿の兄がおり、その兄の姿に弟の姿をどうしても重ねてしまい、誰しもが号泣を隠そうとしませんでした。

 羽田空港に着陸した日本航空機の前輪が脱落するなど、今年になってから日航で運航トラブルが相次いでいることを受け、国土交通省は6月17日、安全対策について外部の有識者からの意見を取り入れる組織を社内に設けるよう、同社に対して異例の行政指導を行うことを決めた。


 このような話を聞くにつけ、安全対策は、20年前の事故を教訓にしているのか、疑問をもたずにいられません。


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